前回は、琉球王府の士族に対する「家譜」の提出命令をきっかけに門中が成立し、発展していったことを紹介しました。
その後、門中化は農民階級にも広がっていき、次第に定着していきます。そしてそれが現代にもつながっているわけです。
今回は、門中がどのように農民階級に広がり、どうやって定着していったかを見てみます。
政治的なおもわくがなぜ農民階級に波及?
まず、少し不思議なことがあります。前回も説明しましたが、王府が士族に対して家譜の提出を命じた背景には、士族階級を明確にして支配体制を強化するという目的もありました。つまり、政治的な背景から門中が生まれたということもできます。
それが、なぜ農民階級にも広がっていったのでしょうか。単にマネしただけ、というわけではないでしょう。社会構造に変化を生じさせるほどの新制度導入なのですから。
先祖崇拝強化のための門中化
研究者によると、それは先祖崇拝強化に習うためだったといいます。
門中とは同じ先祖を持つ人々の集まりであり、その成立によって士族階級における先祖崇拝の習慣が強まったと思われます。それを農民階級もそれを取り入れるために、門中化が広がったと考えられるのです。
古代の沖縄では先祖崇拝の習慣はあまりありませんでした。人の死はおそろしく、忌み嫌うべきもので、死後の世界に意味があるという意識は薄かったと思われます。死んだらそれで終わり、というわけです。
それがいつからか、グソー(あの世)というものが意識されるようになり、それにともない、亡くなった人への供養や儀礼が実践されるようになりました。
背景には、沖縄ではあまり広がらなかったものの、仏教の影響もあると考えられます。あの世だの葬式だの供養だの法事だのというものは、まさに仏教が得意とするジャンルだからです。
死後の世界や死者に対する儀礼が意識されるようになったところに門中のシステムが現れたのです。ある意味、農民階級にとってもタイミングが良かったのでしょう。その結果、門中化が進むことになりました。
元は村にひとつの墓地しかなかった
農民階級への門中の普及は、お墓の所有形態にも大きな影響を与えました。というよりも、お墓を中心に門中システムが発展したといっても過言ではありません。
まず、それまで村では全住民でひとつの墓地を共有するのが普通でした。それは、山の中の洞窟だったり、いわゆる村墓だったりしたと考えられます。村に墓地はひとつだったのです。そのため、お葬式なども村単位で行われていました。
その後、村の中に複数の有力者が出てきて、その家を中心にある種の集団ができます。それをハラ(腹)などといいます。ハラは、門中以前の古い名称です。
ハラは、村墓とは別に自分たちのお墓を持つようになります。組墓と呼ばれるものです。ハラにおけるリーダーが、ハラ単位で行われる祭祀も担うようになりました。
分離墓を中心とした門中化
しかし、ハラも人数が多くなると、ひとつのお墓では収容できなくなってきます。そこで、さらに大きいお墓を造れるハラはいいのですが、そうでない場合はお墓を分離するという手段が取られました。
この分離墓は、親戚や親しい知人が共同所有することが多く、これが現在の門中墓の原型になったといわれます。本家のお墓から分離したお墓を中心に分家ができ、これが門中になっていったともいえるのです。
門中化と脱門中化
前回も紹介したように、琉球王府が士族に対して家譜を提出するように命じたのが17世紀の終わりごろ。それをきっかけに門中化が始まりました。
一方、それが農民階級に本格的に波及したのは19世紀つまり明治維新前後であり、比較的新しい出来事といえます。
それが近年になって脱門中化ということがいわれています。つまり、門中という組織に縛られるのが窮屈だとか、門中墓に入りたくない、自分と家族だけの墓を持ちたいなどといって、門中から離れようとする動きです。
要因はいろいろ考えられます。結束が強い分、干渉も激しく、特に他家から嫁いできた嫁に対するプレッシャーもすごいと聞きます。さらに地元を離れて暮らしていれば、その地域でお墓を手当てする選択肢もあります。
脱門中化で門中墓という共同墓に入る人が少なくなれば、お墓の数が増えることも予想され、現在の墓地不足に拍車がかかることにならないか、このあたりは少し心配な点でもあります。
まとめ
門中化は、士族階級から農民階級に波及していきました。
お墓は村単位から、ハラなどと呼ばれる集団が独自に持つようになります。それが分離した結果、親戚や親しい知人の小集団が共同墓を持つようになり、それを核に門中が形成されるようになっていきます。
この農民階級の門中化は明治に入るころに本格化し、現在では脱門中化の動きも見られるようになっています。