今日は、「16日ジュウルクニチとシーミーとどう違うか?」
今回は、この質問について書かせて頂きます。
沖縄には昔から正月が3つあるといわれます。
①正月と②旧正月、そしてあの世の正月といわれる16日ジュウルクニチです。
その由来はなんなのか、ジュウルクニチとシーミーとどう違うのかなどについてはあまり知られていません。
風習の由来を中心に少し調べてみましたので紹介します。
※ふう しゅう 【風習】
シーミーの由来
同じ墓参り行事でも16日ジュウルクニチとは、由来が根本的に違うということです。
なので、琉球王国の正月行事の後とか、神様がいる神聖な期間を避けたなどというジュウルクニチとはそもそもまったく違うのです。
ちなみに、清明祭は、中国はもちろん朝鮮でもお墓参りの行事として古くから行われており、沖縄では中国から移住してきた人々が住んだ那覇の久米村で行われたのが始まりといわれます。
久米村で行われている清明祭に習って首里王府がシーミーを始めたのが1768年で、今から250年余り前ということになります。
シーミー中心でもミージュウルクニチをするケースも
ところで、ふだんシーミーに墓参りする地域でも、人が亡くなって初めてめぐってくる1月16日にはお墓参りをすることがあります。これをミージュウルクニチといいます。
これはジュウルクニチの本質をよく表しているといえます。つまり、シーミーはお祝いの側面があるので、喪中の家ではやりません。正月のお祝いを避けるようにシーミーも避けるのです。なかには三年忌が明けるまではシーミーをしないという家もあるほどです。
一方で、普段は行わないのに、喪中だからこそジュウルクニチをする家があるということは、シーミーがお祝いであるのに対して、ジュウルクニチが供養の行事であるということであり、そこが本質的な違いといえるでしょう。
船を見送る三重グスクで礼拝する人々
さて、ジュウルクニチといえば、忘れてはいけないのが那覇港近くにある三重グスク。1月16日に、お墓参りに帰れない離島出身の人々が、ここで故郷に向かって礼拝するのが習わしになっています。
三重グスクは16世紀の初めごろ、外敵を撃退するために造られたそうです。その後、17世紀初めに薩摩が琉球に侵攻してからは、港を出ていく船を見送る場所となりました。
したがって、離島に帰れない人々が、出航する船に気持ちを重ねたりしながら、ご先祖様のお墓に祈りを捧げる場として最適なのかも知れません。
★お墓でごちそうを広げながら飲めや歌えの宴会をするシーミーと、はるか海の彼方の故郷をしのぶ離島出身者のジュウルクニチでは、風景がまったく違うのも印象的ですね。
★ジュウルクニチの由来は、琉球王府に仕えていた家来が、お正月行事の終わった16日に里帰りしたところ両親が亡くなっていたためにお墓参りしたことから始まったというのがひとつ。
さらに、15日までは神様がいる神聖な期間なので、それが明けた日にお墓であの世のお正月を祝ったという説もあります。
シーミーは中国から渡ってきた行事で、お祝い的な側面もあります。
一方ジュウルクニチは、琉球王国時代の発祥であり、あくまで供養を目的とする行事です。
ふだん、シーミーにお参りする地域でも、近親者が亡くなって初めてめぐってくる1月16日にはお墓参りする場合があります。
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※毎回書かせて頂いている「沖縄の風習シリーズ」はこのグログを読んだ読者様からの御質問等から沖縄に昔からある伝説・風習等を調査してその意味等を書かせて頂いています。
その為にその地域独特の「伝説・習慣」には、現在の社会情勢・常識から乖離した習慣もあります。著者としてその習慣について擁護・批判する立場には加担する目的はありません。 予めご理解・ご協力の程宜しくお願います。