以前に火葬の歴史を世界と日本に分けて紹介したことがあります。
世界的に見れば、3000年から3500年ほど前には、中央アジアやインドで農耕を行っていたアーリア人が火葬習慣を持っており、日本では仏教の影響を受けて6世紀から7世紀ころに始まりました。
では、沖縄ではどのように火葬を取り入れてきたのでしょうか。調べてみると、沖縄における火葬の普及は、日本本土とはかなり違った経緯をたどったことがわかりました。
今回と次回は「加藤正春著/奄美沖縄の火葬と葬墓制(榕樹書林刊)」を参考に、沖縄の社会がどのように火葬を受け入れてきたのかについて見ていきます。
目次
複葬であることが沖縄の特徴
単葬への転換がネックだった
「静かに眠ってほしいのに・・・」
戦争で火葬せざるを得なかった
米軍の指示で1700のお墓を撤去
安置された遺体を取り出して火葬へ
まとめ
複葬であることが沖縄の特徴
本土と沖縄では火葬への転換の経緯が大きく違います。さらに、沖縄では火葬の普及が本土よりも遅れました。その要因となったのが、沖縄伝統の複葬習慣です。
複葬とは、簡単にいうと葬送を2回行うことです。
このコーナーでは、沖縄伝統の葬送法として風葬を何度か紹介してきました。この場合、風葬後1年から数年後に、白骨化した遺体を墓等から取り出し、洗骨するのが一般的です。
風葬と洗骨、2回葬送することから複葬といわれるわけです。
なお、火葬しない場合の葬送法は、日本では大部分が土葬でした。ただ、沖縄の場合はお墓等に安置することが多かったので、風葬の一種ではあっても、ここでは便宜上安置葬と表記することにします。
単葬への転換がネックだった
このように、死者はまずお墓に安置されるわけですが、これを第一次葬と呼ぶことにします。そうなると洗骨は第二次葬ということになります。
現在の一般的な火葬では、葬送は1回で済むので一次も二次もなく単葬と呼びます。日本で一般的だった土葬も、通常は掘り返したりしないので、こちらも単葬といえます。
つまり、本土では火葬を導入する場合、単葬→単葬だったのですが、沖縄では複葬→単葬と、葬送法を根本的にというか劇的に変える必要がありました。
この点に火葬導入の難しさがあったのです。
「静かに眠ってほしいのに・・・」
沖縄における複葬習慣がいつ始まったのかは定かではありませんが、おそらく数百年単位の昔から続いてきた習わしを一気に変えるのは簡単ではありません。
実際、親族を火葬することについては「親には静かに眠ってほしいのに燃やすなどとんでもない」といった、きわめて正当な理由で抗議する人も昔は多かったといいます。
衛生面や都市開発などの点でメリットが大きい火葬への転換は、こうした抵抗もあってなかなか進みませんでした。
戦争で火葬せざるを得なかった
そんな困難を切り開いたのは、意外にも戦争でした。
戦争で、沖縄はまさに死屍累々の島となりました。ちぎれた手足も散乱している状態で、遺体を一人ひとりまとめて安置することなど現実的ではありません。
そこで火葬せざるを得なくなったのです。昨今のコロナ禍でイスラム教国では遺体の埋葬が間に合わずに火葬しているところもあるそうですが、これと似たような状況だったのでしょう。
米軍の指示で1700のお墓を撤去
さらに戦後になると、那覇市では米軍の指示によって若狭、辻あたりに集まっていたお墓が撤去されます。墓所の広さは両地域合わせて約2万坪、筆数は約1700もありました。
これをすべて撤去し、米軍はそこから土を採取して泊港岸壁の工事に使うというのです。
建物としてのお墓を物理的に撤去するのは、当時の沖縄の実質的な支配者である米軍の権力をもってすれば、それほど難しくなかったかも知れません。
しかし、そこに葬られている遺体はどうするのかが問題になります。しかも、その多くが火葬も土葬もされていない安置葬です。
安置された遺体を取り出して火葬へ
そこで那覇市では、撤去する墓地に葬られている遺体を火葬することにしました。そして納骨堂を建て、火葬後のお骨を納めることにしたのです。
この処置については「グロテスクな遺体の洗骨という負担を子や孫たちに押しつけなくてよかった」と歓迎の声が起きた反面、「自分たちの意思ではないのでご先祖様のタタリは役所の職員たちに降りかかりますように」という否定的な見解もあったようです。
いずれにせよ那覇におけるお墓の撤去と遺体の火葬も沖縄の単葬化、つまり火葬の普及にひとつの弾みをつけただろうと考えられます。
まとめ
沖縄の伝統的な葬法は、風葬もしくは安置葬の後に洗骨するという複葬でした。
火葬の導入は、それを単葬に転換するものでしたが、旧来の習慣にこだわる人々の抵抗もあってなかなか進みませんでした。
それが、悲惨な沖縄戦や、その後の米軍統治下でやむなく火葬を行わなくてはならず、それによって普及に弾みがつきました。