「沖縄ではどうやって火葬に変わったの」~沖縄における火葬導入の話②~

前回は、沖縄における火葬導入の経緯や、その困難さの背景などについて紹介しました。

複葬から単葬への転換の難しさや、それを打ち破ったのが結果的に戦争や米軍だったなどの内容でした。

今回は、その後の火葬率を本土並みまでに上げた立役者は火葬場建設ラッシュだったことを解説していきます。

なお、今回も「加藤正春著/奄美沖縄の火葬と葬墓制(榕樹書林刊)」を参考にします。

目次

戦前から行政は火葬場設置に取り組んでいた

しかし戦争で中断する

戦後は民間でも火葬場建設の動きが

拍車をかけたのが大宜味村

沖縄全土に広がる火葬場

50年でほぼ完了した単葬への転換

まとめ

戦前から行政は火葬場設置に取り組んでいた

前回も説明したように、沖縄では戦前まで、風葬(安置葬を含む)を第一次葬とし、洗骨を第二次葬とする複葬が一般的で、火葬のみとする単葬は、なかなか普及しませんでした。

そのままでは衛生面や都市開発の面でデメリットが大きいので、行政側は戦前から火葬を普及させようともくろんでいました。

その具体的な方策としては火葬場の設置です。いくらなんでも野焼きというわけにはいきませんので、火葬場整備を火葬普及のカギにしようと考えたのでした。

しかし戦争で中断する

行政側の火葬場設置の動きで早かったのは西原村(現西原町)でした。昭和14年には村営火葬場が設置されたそうです。

ただ、やはり古い慣習の打破はそう簡単ではなかったようで、利用者はほとんどなかったとされます。

住民に対する啓蒙活動も十分ではないうちに戦争に突入してしまったのでした。

このように、火葬転換へ向けた火葬場設置という、ある意味先進的な試みは戦争で中断してしまうことになります。

戦後は民間でも火葬場建設の動きが

戦後になって、行政だけでなく、民間でも火葬場建設が動き出します。早かったのが名護町(現名護市)です。

終戦の翌年にできたこの火葬場は、民間の資金によって建設されました。しかし、経営不振のため放置状態となります。やはり、利用者が少ない状況では、収益事業としての火葬場運営はきびしかったようです。

結果的に1953年になって町営に移管され、その後移転し、それが現在の名護市葬祭場になっています。

那覇市安謝にも火葬場ができます。実はこの地には大正時代から火葬場があったようですが、利用者は富裕層など一部に限られていました

戦後になって、ほぼ同じ位置に再び民間の火葬場が設置されます。葬儀社もいくつか設立され、業務内容には火葬も含まれていました。つまり、それだけ火葬のニーズは高まっていたと考えられます。

ちなみに1955年ごろの那覇都市部の火葬率は50%を超えるまでになっていました。

拍車をかけたのが大宜味村

こうした火葬場設置の動きに、拍車をかけたのが大宜味村の動きです。同村では戦前から、婦人会を中心に火葬場設置の運動が盛り上がっていました。

推測ですが、洗骨の際には女性の負担が大きく、他家から嫁いできた長男嫁などは特に大きな恐怖や嫌悪を感じたことは想像に難くないので、そうした面から火葬転換への要求が火葬場建設運動につながった面があると考えられます。

それによって1951年には同村喜如嘉に火葬場が建設されました。この喜如嘉火葬場は1959年に台風で大きな被害を受けたために再建され、71年には大宜味村営火葬場となっています。

沖縄全土に広がる火葬場

喜如嘉の火葬場は建設後、村内外から利用者が押しかけました。言葉は悪いかも知れませんが“繁盛”したのです。その話は沖縄中に伝わり、各地で火葬場建設の機運が高まりました。

そうした空気を受けて、1953年に南部の玉城村(現南城市)に村営の火葬場が設置されました。

それと相前後して越来村(現沖縄市)に、さらに50年代終わりから60年代にかけては読谷村、今帰仁村、本部町、羽地村(現名護市)、国頭村、平安座島と、次々に建設されました。

50年でほぼ完了した単葬への転換

こうした、火葬場の“建設ラッシュ”により、1970年には、離島も含めて18ヵ所の火葬場が設置されており、それを受ける形で1977年の沖縄県の火葬率は約92%に達します。

このころにはもはや風葬+洗骨の時代は終わりを告げ、単葬の時代に入ったといえるでしょう。

その後、1980年代に入ると火葬率は95%、90年代には98%を超え、日本本土の火葬率に追いつく形となりました。

振り返ってみると、火葬の意識が高まって火葬場の整備が進んだというよりも、逆に火葬場が整備されて、それが火葬意識を高めた印象があります。

まとめ

火葬のメリットを認識し、それを普及させようともくろんだのは行政でした。

その方策として、戦前から火葬場建設の動きが出ますが、それも戦争で中断します。

戦後になると、民間および行政の双方で火葬場設置の気運が高まり、各地で建設されました。

それによって火葬率も高まり、20世紀終わりごろになると本土と肩を並べるレベルになりました。

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